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ダシャーが変わると画風も変わる?パブロ・ピカソのケース



Salam!

今回はダシャーについて。


ダシャーが変わるとすべてが変わる。

仕事、環境、趣味や関心から外見まで。

全身の細胞は遅いものでも200日ですべて入れ替わると聞きますが、ダシャーの変化が示しているのもまさにそうした「非連続の連続」、いわば運命の新陳代謝です。


僕は自身が芸術畑に深く足を突っ込んできたせいか、アーティストにおける「作風の変遷」がダシャーで説明できるのではないかと思い、ずっと注目し続けています。


そこで、今回はわかりやすい例として20世紀を代表する芸術家ピカソを取り上げ、その変化を追ってみたいと思います。

果たしてダシャーにピカソの画風の変化は現れているのだろうか?



ピカソの画風とヴィムショッタリ・ダシャー



美術教師であった父ホセ・ルイスが息子の才能に驚嘆し、絵の道具をピカソに譲って自らは描くのをやめてしまったというのは有名なエピソードですが、ピカソがラ・コルーニャの美術学校に入学したのは1892年。ちょうど1歳から続く水星期の最中にありました。

水星は趣味・創作の3室を支配し、5室(学習)に在住。9室(父親・教師)を支配する木星のアスペクトを受けています。


《科学と慈愛》(1897)


1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選。わずか15歳ながら卓越した観察眼とデッサン力を示していることに驚かされます(水星は構造に関わる惑星)。まだまだ修行中ということで、古典的な様式を構図の中心としているのがよくわかりますね。


この後ピカソはマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しますが同校の体制に失望し、バルセロナに戻ることになります。



の時代(1901-1904)


《自画像》(1901年)


「カメレオン」のあだ名で呼ばれるほど、目まぐるしくスタイルを変えていったピカソ。

「青の時代」は、若きピカソがはじめて独自に築いたスタイルだと言えるでしょう。

青い色調で覆われたどこか内省的な画風は、親友カサヘマスの自殺に大きく影響を受けているとされます。

《海辺の母子像》(1902年)


青年期に圧倒的なデッサン力を示したピカソはパリで様々な前衛表現を吸収し、内面に重きを置く表現方法へと傾倒していきました。



青の時代は、ちょうど1900年から始まったケートゥ期に重なります。

ケートゥの象意は別離や質素、禁欲、孤独、内省など。最もスピリチュアルな惑星でもあります。

ケートゥが在住する11室には「友人」の意味があり、減衰する月と水星のアスペクトを受けています。水星と月のコンビネーションはよく言えば繊細さ、悪く言えば過剰に反応する傾向をあらわします。



薇色の時代(1905-1907)


《パイプを持つ少年》(1905年)


1904年、フェルナンド・オリヴィエという名前の女性と同棲を始め、ピカソの心境に変化が訪れます。彼女と暮らすようになってから「青の時代」の陰鬱な表現は影を潜め、ピカソは彼女の美しい裸像や身近な人々の肖像画を、バラ色を基調とした暖かい色で描くようになりました。


薔薇色の時代は短く、ケートゥ期の終わりから金星期に移るちょうど過渡期にあたります。

金星の象意は恋人や娯楽、芸術や贅沢など。

僕はあらゆるダシャーの変化の中で一番アンビバレントな切り替わりがこのケートゥから金星への変化だと思っています。

この時期の作品を見ると、内省的な面影を残しつつ生命力の謳歌へと・・・ケートゥ期からの変化が非常によく出ているのがわかると思います。



ュビスムの時代(1907-1925)


《リキュール酒の瓶のある静物》(1909年)


ピカソの名を有名にしたキュビスム。アフリカ彫刻の時代を経て、敬愛するセザンヌ作品の模倣から、モチーフを多角的に観察するキュビスムに傾倒していきました。

キュビスムと一口に言っても、ピカソはプロトキュビスム、分析的キュビスム、統合的キュビスムとその手法を深化させていきますが、ここではプロトキュビスムからシュルレアリズムに至るまでの時期をキュビスムの時代としました。


《若い娘の肖像》(1914年)


ピカソは「なぜ見たものをそのまま描かなければならないのか?そんなことをするくらいならば完全な円を描こうとする方がましだ」と喝破し、伝統的な西洋美術の手法から脱却し、新たな気風を画壇にもたらしました。




この時、ヴィムショッタリ・ダシャーは金星期。

吉星の支配する3室(乙女座)に在住する金星は、芸術家における創造力をもたらします。

ピカソの金星は3室で減衰し、火星にアスペクトされているのが特徴。

これは社会的成功をあらわすラージャ・ヨーガであるばかりか※1火星(刃物・機械)の影響で平面から脱却し、作品に彫刻的な、多面的な視点をもたらしているように思えます。



作《ゲルニカ》誕生(1937年)


《ゲルニカ》(1937年)


以降、ピカソの作風はキュビスムを経て、新古典主義、シュルレアリスムへと変遷していきますが、長くなりすぎるので今回はここまで(笑)。


ですが、最後に名作《ゲルニカ》が描かれた時期にだけ言及しておこうと思います。

ご存じのようにゲルニカとは、ナチス・ドイツによってスペイン北部バスク地方の町ゲルニカが無差別爆撃されたことを知ったピカソが制作した作品。

「スペインを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現した」

と自身で語ったように、画面にはわが子を殺された母や炎に焼かれる女性など、怨嗟と嘆きの声が充満しています。



ヴィムショッタリ・ダシャーは1933年から月期。

月期が始まった直後の1934年にピカソは祖国スペインからパリへ移住しています。

月はマインドをあらわす惑星であり、マインドをあわらす5室に在住。先ほど言ったように、月は水星とコンジャクトしており、とても繊細で難しい時期です。

さらに、ピカソの月はある特徴的なコンビネーションを形成しています。

それは傷心により求道の精神をもたらすというサンヤーシ・ヨーガ※2です。


ああ、だからピカソはゲルニカを描けたのかもしれない、と思ったのは僕だけではないはず。

のちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、《ゲルニカ》の絵葉書を渡したというエピソードはあまりにも有名です。


《ゲルニカ》は、その制作の過程がかなり詳細に伝わっている作品です。

作品が完成したのは1937年6月4日頃。

ダシャーは月ー木星期(1936/2-1937/6)でした。

ピカソの月と木星は、もうひとつの特徴的なコンビネーションを形成しています。

それは、「理想」を意味するガジャケーサリ・ヨーガ。

《ゲルニカ》はまさに、ピカソが巨大なキャンパスの上に再生した、キリスト教的な黙示録のヴィジョンでした。


画面に描かれたミノタウロス(牡牛)についても、古来からさまざまな解釈がされてきました。

アンタル・ダシャーの木星は、まさに牡牛座に在住しています。



※1 減衰した惑星が3室に在住するのは「パラーシャラの例外則」。また、金星は5室と10室支配のラージャヨーガ・カラカである火星のアスペクトを受けている。

※2 火星の星座に在住して土星に絡む月は離欲をもたらす。サンヤーシは僧侶のこと。ピカソの月は土星そのものには絡んでいないが、土星のナクシャトラにある。

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