長編小説『碧水の踊り子、星読みの竜』公開しました!
- blueastrologer
- 7月7日
- 読了時間: 34分
更新日:8月9日

竜を従え、星の理を読む者よ。
舞に秘されし世界の運命を解き放て――
長編小説『碧水の踊り子、星読みの竜』を物語投稿サイト「Tales」にて公開しました。 https://tales.note.com/akbar921/wakmiz3b38qxf 前作にあたる短編『ヴァーラダの占星術師―砂に描かれた運命』とは大きく趣を変えた、推理あり、アクションあり、サスペンスありの壮大な占星術ファンタジー・ミステリー。
総文字数は12万字弱。長編小説としては処女作となります。
せっかく執筆したので、今年開催される『創作大賞2025』にも提出してみようと思っています。
◆ストーリー紹介
古代の占星術「Jyotish(ジョーティシュ)」を用いて人々の運命を読み解きながら旅を続ける、流浪の占星術師アキュバル。
彼のもとに、ある日奇妙な依頼が舞い込む。税務監察官マジッドと名乗る男が「娘の鑑定をしてほしい」と依頼してきたのだ。
しかし、ホロスコープ(天体図)から読み取れる事実は男の証言と矛盾していた。
疑念を抱いたアキュバルは、手がかりを求めて町の大型野外劇場「七つの門」を訪れる。そこで彼が目にしたのは、神秘的な「竜舞(りゅうぶ)」を踊る美しい少数民族の少女セターラの姿だった。
やがて明らかになるマジッドの正体と、聖地ムルギルに眠る太古の秘密。秘宝を狙う陰謀、暗殺者の刃、そして失われた過去への贖罪——。
アキュバルとセターラは、民族の生命線を賭けた闘いに身を投じていく。
二匹の神話の竜ラーフとケートゥに導かれ、占星術で舞踊に隠された暗号を解き明かす、壮大なオリエンタル・ファンタジー・ミステリー。
この記事では、本作の第二章まで掲載しています。
(続きは「Tales」でお読みいただけます)
面白ければ、応援どうぞよろしくお願いします!
碧水の踊り子、星読みの竜
Prologue
「彼」と出会った日
風は砂を運び、砂は記憶を覆う。
青年はもう何日この砂の海を彷徨っているのだろう。今朝水筒の最後の一滴を飲み干し、二日前に干し肉の最後の切れ端を口に入れた。
今や彼が頼れるのは東の空に輝く明けの明星だけ。彼の乗る馬も限界を迎えつつあった。目指すヴァーラダの国境までの距離がどれほど残されているのか、目星をつけることさえできない。
「日が暮れる」
青年は掠れた声でつぶやいた。いや、もはや声にすらならない。砂を含んで乾いた唇が割れ、血が滲んでいた。砂漠の過酷さの前に、彼のまだ若く弾力のある四肢から急速に力が奪われていった。
三日前、突然の砂嵐に遭遇した青年は方向感覚を失ってしまった。
砂嵐が収まったとき、彼の周りにあるのは見渡す限りの砂と岩ばかりだった。昼は太陽の動きを追い、夜は北極星を探したが、記憶が定かではなく、確証を持てぬまま進んでいた。
今、彼はその選択が誤りだったことを悟った。
馬が耐えきれず立ち止まる。日が完全に沈み、星々が青黒い空に浮かび上がる。
青年は馬から降り、遠くに見える岩陰に向かって歩き始めた。砂に足を取られ、よろめきながら。
岩陰に辿り着くと、もう一歩も歩けなかった。冷たい岩に背を預け、深く息を吐く。
「静かな夜だな」
誰に聞かせるでもなく、声にならない声でつぶやいた。
ふと岩の隙間を這う小さな甲虫に目が止まる。
虫を捕まえ、一瞬の躊躇の後、目を閉じて口に入れた。殻が砕ける感触と土のような味。これが最後の食事になるのだろうか。
彼はふと思いついたように荷から布で包まれた書物を取り出し、膝の上に置いた。それは彼がファールズ脱出の直前、旅の占星術師から託された古い書物だった。
青年は朦朧とした意識の中で夜空を見上げた。星々は冷たく、遠く、沈黙していた。
冷え切った手でそっと書物を開く。余命わずかな時間、その古代の知恵に触れるのが最後の慰めになるかもしれない。
月明かりの下、羊皮紙に描かれた図形と文字が浮かび上がる。
無心になって眺めていると、彼の心は次第に凪のように穏やかになった。その奇妙な図形を通じて、旅人から伝授された知識が少しずつよみがえり、それらの欠片が青年の脳裏におぼろげな意味を結びはじめる。
ふと、彼の意識が揺らいだ。
頭が回らない。脱水と飢餓の果てに訪れる錯乱だろうか。
羊皮紙の上の文字が踊りだした。天体図に対角線上に配置された二つの惑星が同時に明滅する。あるいは、これは死の前に訪れる幻なのかもしれない。
そのとき、まだ砂で塞がれていない彼の左耳に遠い声が届いた。
「おい、聞こえてるか?」
頭の中で直接響くような、風が運ぶような、かすかな声。
その時、視界の隅を迅雷のように黒い影が横切ったような気がした。
「今日はまだ、お前がくたばる日じゃないようだぜ」
第一章
税務監察官は嘘をつく
「アキュバル」
遠い声が、闇の中から彼に呼びかけていた。
声は次第に強くなり、まるで頭蓋の内側から響いてくるかのようだった。青年は重い瞼まぶたを持ち上げようとしたが、それは砂に埋もれた石のように動かない。
「おい、起きろ!」
鋭い声が耳元で不機嫌に鳴り響いた。青年はようやく目を開け、ぼんやりとした視界の中に黒い影を捉えた。
それは猫ほどの大きさの竜だった。漆黒の外皮は光を吸収し、赤い瞳だけが影の中で燃えるように輝いていた。背中には蝙蝠(こうもり)のような薄い翼が折り畳まれ、鋭い爪が長い指の先に光っている。その尊大な物言いは、アキュバルにとって聞き慣れた響きだった。
「ラーフか」
「お前が一度寝たら起きないのはいつものことだが‥‥‥さすがに今回は二度と起きないかと思ったぞ」
「ああ、死ぬかと思ったよ」
アキュバルは枯れた声で答えた。彼の喉は乾き、舌はザラザラとしていた。砂漠で水を失った記憶と重なり、一瞬恐怖が体を走った。
「ずいぶん楽しい夢だったみたいだな」
ラーフは口角を歪め、笑みを浮かべた。その声の調子は低く、どこか揶揄(やゆ)するような響きを帯びていた。
青年の黒曜石のような瞳は、几帳面な星の計算に疲れて少し充血していた。年の頃は二十代半ばだろうか。
その精悍な面立ちは日に焼けて長旅の痕跡が刻まれているが、どこか異国の気品と静かな憂いが漂っている。艶やかな黒髪の上には赤い鳥の羽根飾りが付いた布を巻いていた。部屋着と思われる緋色の薄手のローブを身にまとい、その裾から覗く足首には旅先で手に入れた銀の鎖と青い石の装飾が光っている。
そこはエル=バシール州の州都にある宿「銀の鐘」の一室だった。彼らは二階の角部屋に宿泊していた。
どうやら机の前で椅子に座ったまま眠り込んでしまったらしい。重厚な木の机の上には羊皮紙が何枚も広げられて散らばり、右手には葦あしの筆がまだ握られていた。インクは乾き、筆先は硬くなっていた。
彼は机から立ち上がり、部屋の隅に置かれた水差しへと向かった。水を掌ですくい、顔を洗う。冷たい水が肌に触れ、眠気が一気に引いていく。
続いて陶器の杯に水を満たし、喉を潤した。あんな夢の後では、水の一滴一滴が貴重に思えた。
「この町に着いて以来、お前ときたら‥‥‥」
ラーフは机の上を徘徊しながら鼻を鳴らした。
「往来は珍しいものであふれているのに、部屋にこもってばかりだな」
竜の尻尾が不満げに揺れ、羊皮紙をかすめて音を立てた。
「朝から騒がないでくれ。寝起きの頭に響く」
「朝?星読みの先生、とっくに日は高く昇ってるんだよ」
喚くラーフを眠そうな目で一瞥すると、アキュバルはふたたび羊皮紙に記された奇妙な図形に視線を注いだ。それは「Jyotish(ジョーティシュ)」を扱う占星術師が命運を読み解く際に参照するもので、ホロスコープ、あるいはクンダリーと呼ばれるものだ。
「キノコみたいに部屋の片隅にうずくまっていないで、市場バザールに出てみろよ。酒と香辛料の匂い、商人たちの掛け声、踊り子たちの鈴の音。それこそが人間の営みだろう」
アキュバルは聞き流していたが、ラーフの声が熱を帯びてきたのを感じた。いつものように彼の持論が展開されると思われた、その時だった。
「雨がやんできましたね」
窓辺から清らかに鳴る鐘のような声が聞こえた。
そこにはもう一匹の竜が佇んでいた。透き通るような純白の外皮と神秘的な青い瞳を持ち、美しい白銀の翼を背に生やしている。
「ケートゥ。お前からもこの小僧に言ってやれ」
「時に立ち止まるのも旅の醍醐味ではありませんか?」
ケートゥは振り返り、その大きな翼を一瞬羽ばたかせた。巻き起こった微風が窓枠に積もった埃を吹き払う。
アキュバルとこの二匹の「古代の竜」との出会いから、もう五年以上が経つ。王都の学院を辞して流浪の占星術師となる以前から、彼の旅路にラーフとケートゥは常に寄り添ってきた。
なぜ彼らがアキュバルに同行するのか——その理由を尋ねても、決して答えない。
アキュバルは窓に近づき、開け放った。
湿った空気が部屋に流れ込んできた。雨季のエル=バシールは、時折激しい雷雨に見舞われる。空は依然として灰色の雲に覆われていたが、三日間降り続いた雨は小降りになり、今はほとんど止んでいた。
濡れた屋根瓦や道の石畳が、わずかに雲の切れ目から姿を現した陽の光を反射し、きらきらと輝いていた。
依頼人の運命を読み解きながら旅を続けるアキュバルは、ひと月前にヴァーラダ国の北部に位置するエル=バシール州に到着していた。彼はそれ以来、この宿を根城とし、占星術師としての鑑定で生計を立てている。
彼は窓辺から戻り、再び机に向かった。依頼人のホロスコープを完成させなければならない。葦(あし)の筆を手に取り、新しいインクに浸し、星々の配置から読み取れる事柄を細部に至るまで描き込み始めた。
「アキュバル先生」
扉を叩く硬い音が響き、声変わりする前の甲高い少年の声が聞こえた。
「ハキームか」
描き込みを続けながらアキュバルが応じると、扉が開き、まだ十代前半と思われる少年が顔を覗かせた。「銀の鐘」の使用人のハキームだ。細身の体に質素な麻の服を着ており、帽子からちらりと栗色の巻き毛が覗いていた。彼の目にはラーフとケートゥの姿は映っていないようだった。
「マジッドさまという方がお越しです」
「もうそんな時間か」
アキュバルは窓の外に視線を投げ、陽の傾き加減から現在の時刻を推し量った。
「案内してくれるかい?」
「はい、一階の応接間にお通ししております」
ハキームが扉を閉めると、アキュバルは椅子からゆっくりと立ち上がった。作業中に纏っていた薄手の緋色のローブを脱ぎ捨て、鑑定用の衣服に袖を通す。風合いの良い黒い綿の上衣と、同色の揃いのズボンだ。その上に、金の刺繡が施された深紅のマントを羽織り、頭の布と首元を正した。彼の星読みとしての評判は日に日に高まっており、今では町の有力者たちからも依頼を受けるようになっていた。
エル=バシールで税務監察官を務めるマジッドという男性がアキュバルの部屋を訪れたのは数日前だ。
依頼は「娘について鑑定してほしい」というもので、マジッドはその「娘」の出生日と出生時刻をアキュバルに伝えていった。彼女の名前は明かされていない。
アキュバルは依頼を承諾し、マジッドから提供された出生情報を元にホロスコープと資料を作成していた。今日はその結果を伝える日だ。
アキュバルは資料を束ねて丸める前に、今一度「娘」のホロスコープを見た。長年ジョーティシュの鑑定をしていると、作成したホロスコープを見た瞬間、その非凡さに目を奪われる時がある。まぎれもなく彼女の天体図はそういった類のもので、星々は稀有な配列で彼女の背負う数奇な宿命を物語っていた。
アキュバルは胡桃(くるみ)の木で作られた重厚な応接間の扉を叩き、返事を確認した後に部屋に入った。
一階の応接間は、「銀の鐘」の中で最も上質な部屋だった。藍色と赤土色の意匠が織り込まれた分厚い絨毯が敷かれ、椅子には羽毛のクッションが置かれ、壁には精巧な草木模様の絹のタペストリーが飾られていた。
ラーフとケートゥも扉から滑り込むように飛び入り、応接室の調度品の上にふわりと舞い降りた。
窓際の椅子に、その男は座っていた。
太陽が雲間から顔を出し、その光が窓から部屋に差し込み、彼の上半身を照らしていた。
マジッドは四十代半ばに見えた。緻密に織られた灰色の上着を着用し、ヴァーラダの役人に特徴的な脇に刺繍の入った黒いズボンを身につけていた。椅子に腰掛けた姿勢から、通常の役人より堂々とした体躯が窺える。
やや切れ長の目と高い鷲鼻が特徴的で、髭はなく、灰色が混じり始めた長髪は後ろで束ねられていた。
「大変お待たせしました」
アキュバルが部屋に入り会釈するとマジッドは座ったまま軽く頭を下げ、手にしていた小さな冊子を懐にしまった。
「いや、私のほうこそ貴重な時間をいただき恐縮だ」
見た目の印象に比べ、マジッドの声色は意外に柔らかく、教養ある人物のそれだった。
二人は応接間に置かれた広いテーブルを挟んで向かい合って座った。アキュバルは準備してきた羊皮紙の図面を広げた。
「ジョーティシュの鑑定は初めてでしたね」
アキュバルが確認すると、マジッドは大腿の上で掌を組み、居住まいを正した。
「いかにも」
「どういった占術であるとお聞きしていますか?」
「星々の位置からその人物の命運を見る。そのように理解しているが」
「はい。ジョーティシュとは古代の言語で『光の神』を意味する秘術です。十八人の聖者たちの天啓によって見出され、ヴァーラダの各地で今日まで伝承されてきました。おっしゃるように天体配置から運命を読み取る技法ですが、その体系は膨大で、習得までには七度転生する必要があるとさえ言われます」
「なるほど。いにしえの叡智というわけだな」
「これがあなたのご子息のホロスコープです。お聞きした出生情報から作成しました」
羊皮紙には、正方形を縦横に分割したような十二の小部屋が整然と並び、それぞれに小さな記号や数字が記されていた。
「特に鍵になるのは出生時刻です」
とアキュバルは強調する。
「この図は出生時の天体配置が記されたもので、ここから個性や才能、体質、命運の推移などを読み解いていくわけです」
「ほう‥‥‥」
マジッドは羊皮紙に描かれた図表を興味深そうに覗き込んだ。アキュバルはあらためてホロスコープを眺めて考えを整理し、息を深く吸い込んだ。
「彼女の天体図には、類まれな祝福と悲劇が同時に刻まれています」
思案の後、アキュバルは静かに切り出した。
「上昇星座(ラグナ)は乙女座(カンニャ)。第七室には非常に強力な木星と金星が在住しており、第十室には月と水星が位置しています。これは古の芸術の神、サラスヴァティの加護をあらわす徴(しるし)です。彼女は稀有な芸術的才能に恵まれています。察するに、それは伝統的な芸能に類するものでしょう。舞踊、あるいは武術の型かと思われます。彼女は幼い頃、その教育を母親から受けていたはずです」
アキュバルは一呼吸置き、マジッドの反応を見た。
マジッドはホロスコープを見ながら静かに前傾し、テーブルの上に交差させた両腕を乗せた。
「続けてくれ」
「兄弟姉妹はいないようですね。出産時、へその緒が首に絡まるなどして、処置が必要だった可能性があります。またこれは推測ですが、彼女の臀部には生まれつき痣のような大きな斑点があるのでは?」
「‥‥‥その通りだ」
マジッドの声色はいささかも変化していなかったが、少なからず驚嘆した様子が読み取れた。その切れ長の目の奥に宿る光が鋭さを増していた。
「また、彼女のホロスコープにはあるユニークな特徴があります。多くの惑星が蠍座や魚座など、水の星座に在住していること。特に竜の神秘をあらわす『サルパ・ドレッカナ』という領域に集中している点です」
「なに?」
明らかにその言葉の何かがマジッドの注意を引き付けたようだった。彼はアキュバルの目を正面から見据えた。
アキュバルの目にはその様子がやや奇異に映ったが、彼の表情の奥から何かを読み取ることは困難だった。
「それは具体的に何を意味するのかね?」
「サルパ・ドレッカナは神秘と同時に危険を示す領域ですが‥‥‥続きをお話しする前に、ひとつ確認しておきたいことがあります」
「何だ」
アキュバルは慎重に言葉を選んで話し始めた。
「あなたの公の立場は税務監察官ということでしたね?」
「先に伝えた通りだ」
「その事実が、ホロスコープと一致しないのです」
マジッドは訝(いぶか)しそうに首を傾けた。
「どういうことだ?」
「この出生図が正しければ‥‥‥彼女の父はすでに亡くなっている可能性が高い」
しばしの間、テーブルを挟んで沈黙が流れた。
「先ほど申し上げた『悲劇』とはそのことです。彼女には明らかな悲運バラリシタの徴(しるし)がある」
アキュバルは図面の一部を指差した。
「これは彼女の運気の推移を示す惑星の配列ダシャーです。ここから読み解くに、およそ10年前に彼女の両親は病気や怪我といった不測の事態で逝去している、あるいは彼女の元から去っています」
マジッドはわずかに目を細め、彼の言葉を聞いていた。
「職業も一致しません。ホロスコープに示された彼女の父親像は優れた武人であり、組織や共同体の長です。仮にあなたが義父であってもその特徴は示されるはずです」
「君の読解が間違っているという可能性は?」
「ありえなくはない。しかし、私があなたに伝えた他の事象はすべて的中していた。そうですね?それがどうしても不可解なのです」
アキュバルはマジッドを見つめた。彼の態度から胸中を推し量ろうと試みたが、マジッドの表情は平静であり、大きな変化は見受けられなかった。
マジッドは場の緊張感を和らげるように、微かに口角を上げた。
「私はジョーティシュに関しては素人だ。よくわからないが、時にそういうこともあるのではないのかね?せっかくだから続きを話してもらいたいのだが」
「私としては、その点が解き明かされなければ先に進められません。このホロスコープが間違っている可能性もあります」
それきり二人は沈黙した。部屋の中の静寂が重くのしかかる。
マジッドは窓の外に視線を投げると、ふと思いついたように懐から冊子を取り出した。彼は冊子をめくって何かを確認すると、職務的な冷静さを目に宿して言った。
「そうか、残念だ。今日は他の約束も控えている。そろそろ庁舎に戻らなければならない」
マジッドは冊子を懐にしまい、小さな袋をテーブルに置いた。中には報酬の金貨が入っているようだった。
「いえ。受け取れません」
「君は準備に多くの時間を割いているのだろう?これはその対価だ。取っておいてくれ」
マジッドは立ち上がり、アキュバルを見下ろした。
「ジョーティシュは大変興味深いものだったよ。また機会があれば、続きを頼む」
そう言うとマジッドは踵を返し、静かに部屋を出ていった。
「‥‥‥どう思いますか?」
ケートゥは窓辺に立ち、マジッドが宿を出て歩き去っていく姿を見つめていた。彼は整然とした歩みで通りを横切り、官庁街の方角へと消えていった。
「どうって」
ラーフはどこか痒いところでもあるのか、全身をよじりながら言った。
「奴は父親じゃない。他人の鑑定を依頼してきたってことだろう」
「しかし彼女の出生時刻は正確に知っていた。身体の痣のことも。知人の娘でしょうか?」
「さあな。まあ、不可解な依頼人が来るのは今に始まったことじゃないだろ。あるいは、こいつの計算が間違っていたか」
「いや。それはないようだ」
アキュバルはマジッドが去った後すぐ、自分の計算に不備がないか確かめてみたが、いかなる瑕疵かしも見出すことはできなかった。
アキュバルは静かに両腕を組み合わせ、マジッドが置いていった金貨の袋をじっと見つめた。袋が置かれたテーブルの木目に、斜めに傾き始めた陽の光が美しい縞模様を刻んでいた。
ラーフの言う通りだ。脛に傷を持つ人間、言うのも憚られる秘密を抱えた人間が鑑定に訪れるのは珍しいことではない。しかし、何かが彼の心を重く捉えていた。マジッドの振る舞いはあまりにも堅固で、洗練されていた。それがかえって異質さ、そして彼が守るべきものの大きさを偲ばせた。それに、鑑定中に気になる反応もあった。
比類のない舞踊の才を持ち、両親を失う悲劇に見舞われた者。彼女の運気を見ると、その才能は今、大きく開花する時期を迎えているようだった。マジッドという男はこの人物になぜ強い関心を持っているのか?
「アキュバル先生」
扉の向こうからハキームの声が聞こえた。
「どうぞ」
ハキームが扉をそっと開き、遠慮がちに顔を覗かせる。
「そろそろ、応接室の清掃に入らせていただきたいのですが‥‥‥」
「ああ、そうだったな。すまない」
アキュバルは思索を打ち切り、テーブルの上に乱雑に広げられた羊皮紙を片付けはじめた。
「おい、アキュバル」
ラーフが肩に降り立ち、もう我慢できないといった様子で耳元に囁いた。
「これから見世物にでも行こうぜ。鑑定が途中で終わったから、時間はあるだろ」
アキュバルはラーフの提案を軽く否定しようとしたが、ふと何かを思いついたように手を止めた。そして一瞬の思案ののち、扉を閉めようとしていたハキームに声をかけた。
「ハキーム、ちょっと聞きたいんだが」
「何ですか?」
「エル=バシールで最も有名な踊り子といえば誰?」
少年は目を輝かせ、即答した。
「セターラさんです!若いハザル族の踊り手で、『七つの門』の花形です」
「ハザル族?」
「はい、北西の高地から来た民族です」
「今日も彼女の公演はあるのかい?」
「ええ!今からなら、夜の部には間に合うと思いますよ」
アキュバルはハキームに礼を言い、彼女の名前を脳裏に刻み込んだ。ハキームは静かに扉を閉め、出て行った。
「なるほど」
ケートゥがつぶやいた。
「彼女がそれほどの踊り手なら、すでに注目されているはずだということですね」
「まあ、奴は『娘』がエル=バシールにいるとは言っていないがな」
ラーフが口を挟む。
「それならそれでいいさ。せっかくの貴重な晴れ間だし、町に見物に出かけよう」
「おっ!」
ラーフは興奮したように叫んで羽ばたき、その場に飛び上がった。
「そうだよな。先生、話がわかるじゃないか。行こうぜ、『七つの門』に!』
アキュバルはうなずいて羊皮紙の束を脇に抱え、立ち上がった。
夕刻が近づき、太陽はすでに富裕層の邸宅の屋根に差し掛かっている。商業区のあちこちから炊事の煙が立ち上り、人々は準備に追われているようだった。文化の十字路エル=バシールに、また一夜の饗宴が始まろうとしている。
第二章
彼女は紛れもなく「本物」だ
占星術をはじめとする古代の学問と芸術の復興により、周辺諸国から数多の人材が訪れる広大なヴァーラダ国。数千年の歴史を誇るこの王国は、古代から現代まで脈々と続く王朝の下で、豊かな文明を育んできた。その北部に位置するエル=バシール州は山々と砂漠が出会う場所に存在し、州都エル=バシール市は階段状の丘陵に広がっていた。石畳の急な坂道が幾重にも連なり、下層には商人たちの市場が、中層には地元民の住居が、最上層には官庁や富裕層の邸宅が建ち並ぶ。
町を囲む古い城壁の石材には、過去の文明の痕跡が混ざり合い、さまざまな時代の層が重なっているようだった。
東の草原、西の高原地帯、そして北に霞む宗教国家ガラムファラの山々。
様々な土地に囲まれたこの町は、古くから商業と文化の交差点として栄えてきた。
特に近年、西の山脈の向こうにある大国ファールズが周辺諸国への侵攻を続ける中、エル=バシールの戦略的、経済的な重要性はさらに高まっていた。
アキュバルは鑑定を通じて、この町の活気の裏にファールズ軍の侵攻がもたらす静かな緊張感が潜んでいることを知っていた。だが、夜のエル=バシールは、そんな人々の不安とは無縁のように、昼間とはまったく異なる表情を見せていた。
石畳の坂道に無数の灯火が瞬き、階層状に広がる街のあちこちから微かに弦楽器の調べが聞こえてくる。
商人たちの声に混じって、異国の言葉や笑い声が夜風に乗って漂い、スパイスと串焼きの匂いが鼻をくすぐった。絨毯商は色鮮やかな織物を広げて客を呼び込み、宝石商の店先では青や緑の石が松明の光を受けてきらめいている。酒場からは陽気な歌声と客の手拍子の音が漏れ、露店に並べられた果実から漂う甘い香りが夜の空気に混じり合っていた。
「これがエル=バシールの夜市か」
ラーフは興奮して宙に舞い上がり、通りの両側を見回していた。真紅の瞳が大きく見開かれ、尻尾がせわしなく揺れている。
ハキームによれば「銀の鐘」から「七つの門」までは歩いて三十分ほどの距離ということだった。鑑定を終え、宿を発ったアキュバルたちが「七つの門」のある街区に到着した時、すでに陽は暮れ、街区の中央通りの両側ではさまざまな露店が営業を開始していた。ラーフはご満悦といった表情で市場の盛況ぶりを眺めている。
「これこそが人の営みだな。古の賢者の言葉にもあるだろう。『夜市を素通りする者は、人生の半分を捨てる』ってな」
「‥‥‥そんな言葉ありました?」
ケートゥが軽く疑義を呈する。
「細かいことは気にするな。エル=バシールに着いてひと月あまり。ようやくおれは生きた心地がしてるよ」
ラーフは先を歩くアキュバルに追いつき、振り返った。
「どうだ、お前も楽しんでるか?」
しかしラーフは彼の顔を見て継ぐべき言葉を失った。彼の頬は異様に大きく膨らんでおり、両手で蜂蜜がたっぷりかかった揚げ菓子の包みを持っている。
「ん?」
アキュバルは口いっぱいに菓子を頬張りながら、ラーフを見た。
「お前、いつの間に‥‥‥」
ラーフは呆れたように眉間を寄せた。
「先ほど買っていました。あなたが夜市の光景に見とれている間に」
ケートゥはその様子を一部始終見ていたようだった。
アキュバルは揚げ菓子を咀嚼そしゃくして飲み込むと、懐から別の包みを取り出した。そこに包まれていたのは、バラの香りがするシロップに浸された円形の菓子だった。
「まだ食べるんですね‥‥‥」
「‥‥‥こんなことを言うのは本来ケートゥの役目だと思うが」
ラーフの視線は、そのいかにも甘そうな菓子にじっと注がれていた。
「健康に悪いぞ」
アキュバルは無言で菓子を咀嚼しており、返事はなかった。
そんな会話を交わしているうちに、彼らは「七つの門」に到着した。
アキュバルは夜市で商人と話しながら「七つの門」について情報を集めていた。「七つの門」は、かつてのキャラバンサライを裕福な商人が買い取り、文化施設として改装した建物ということだった。
七つの異なる方角からの入口を持つその建物は、夜になると色とりどりの灯火に照らされ、まるで古い御伽噺から抜け出してきたような幻想的な姿を見せる。中央の中庭は天候に応じて開閉可能な半透明の布で覆われており、今夜は星空の下での公演となるようだった。
建物の周囲にはすでに多くの人々が集まっていた。ヴァーラダ北部の伝統的な衣装を着た地元民から、遠い国からやってきたと思われる旅商人まで。建物の前の広場では、ラクダや馬が手綱に繋がれて観覧に訪れた主人の帰りを待っていた。中には象牙で飾られた豪華な輿みこしで担がれてきた富豪もいるようだ。
「すごい人だな」
アキュバルは人混みに圧倒された。正面入り口は人でごった返しており、落胆した表情の人々が三々五々立ち去っていくのが見えた。
「こんなに早く売り切れるとは、聞いてないぞ」
遠方から来たらしい商人が連れに愚痴をこぼしている。若い恋人同士は困ったような顔で顔を見合わせていた。どうやら客席はすでに満員で、正規の入場券はとうに売り切れているらしい。
「一足遅かったみたいだな」
その様子を見てアキュバルが嘆息する。
「お前に世俗の知恵をひとつ教えてやるよ」
ラーフは自信満々に言った。
「こういう時は、ダフ屋を探せばいい。多少高くついても、金に糸目はつけるな」
「七つの門」の内部は、外観にも増して華麗だった。中央の中庭を取り囲む二階建ての回廊には美しいタイル装飾が施され、アーチ状の窓からは柔らかな光が漏れている。一階には高級な観客席があり、二階の回廊には立ち見や安価な席が設けられていた。
「世俗の知恵などと調子のいいことを言って‥‥‥」
ケートゥはラーフを睨みつけた。
「彼に悪知恵を吹き込まないように」
「無事に入場できただろ。それとも、あのまま路頭に迷う方が良かったか?」
ケートゥがアキュバルに法外な値段で入場証を買わせたことを責め、アキュバルの背後では延々と二匹の応酬が繰り広げられていた。
アキュバルは二階席の片隅に腰を下ろし、眼下に広がる光景を見渡した。中庭の中央には円形の舞台が設けられ、その周囲を取り囲むように観客席が配置されている。老若男女、貴賤を問わず、実に多様な人々がこの夜の催しを心待ちにしているようだった。
「変わった服装だね。旅人かい?」
隣に座っていた中年の男性が、アキュバルに声をかけてきた。地元の商人風の身なりで、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「ええ、つい最近この町に」
アキュバルは軽く会釈した。
「ヴァーラダの西部から来ました」
楽団が舞台に現れ、三人の弦楽器奏者による前奏が始まった。観客席がざわめきから静寂に変わり、期待に満ちた空気が会場を包む。奏者たちはそれぞれ異なる弦楽器を携え、無拍の器楽曲を厳かな調子で奏ではじめた。
「あなたはよく『七つの門』に?」アキュバルは演奏に耳を傾けながら、男性に質問を返した。
「ああ。常連といってもいいかな。君は運がいい。この時期、星空の下で演目を見られることは滅多にないからね」
そう語る男性の目は生き生きとしていた。
「『七つの門(ハフト・ダルワーザ)』というのはまた変わった名称ですね」
「すでに君も見たと思うが、この建物には実際に七つの入口がある。それぞれの門は異なる目的を持っており、同時に七つの芸術をあらわすと言われている。そして、最も大きな門である『第一の門』が象徴するのが、舞踊というわけだ」
男性は潜めた声で解説しながら身を乗り出した。
舞台ではすでに最初の演目が始まっていた。
弦楽器に陶器の太鼓の伴奏が加わることで曲調は大胆に趣を変え、色鮮やかな衣装を身にまとった踊り子たちが軽やかなステップで観客を盛り上げていた。ある踊り子は腰に金の装飾品を巻き、指先には小さな鐘を巻きつけていた。その涼やかな音色が太鼓のリズムに絡み合う。またある踊り子は手首に薄い絹のヴェールを携え、それを空中で波打たせながら優雅に身体をくねらせた。
「演奏家よりも踊り子の地位が高いということですか」
「そこまでは言えないが、舞踊を最上の芸術として扱う文化がこの町にはある。だから、あの舞台に立つことは彼女たちにとって憧れなんだろうね」
「なるほど。誰か贔屓の踊り子はいるんですか?」
「それはもちろん」
男性はアキュバルに白い歯を見せて笑いかけた。
「セターラさんだね」
演目が進むにつれ、観客席の熱気は次第に高まっていった。
技巧を凝らした剣舞を披露した演者たちが鮮やかな衣装を翻して舞台を去ると、会場に一瞬の静寂が訪れた。
女性の演奏者に交代し、楽器の音色が変わる。彼女が奏でているのは底部が球体になった擦弦楽器(キャマンチェ)だった。まるで咽ぶ人の声のような、情感に満ちた音色が夜空に響く。
舞台の奥から、一人の女性がゆっくりと現れた。
「彼女だよ」
男性に指摘されるまでもなく、周囲の反応からアキュバルはそれがセターラなのだと直感した。
まだ若い。十代後半といったところだろうか。
遠目に見る印象としては、完璧に整った美貌というよりは、涼しげな瞳と柔らかな頬の線が愛らしい印象を与える顔立ちだ。しかしすらりと伸びた四肢は端正であり、美しく長い黒髪を後ろで結い、鮮やかな碧色の民族衣装を身にまとったその姿は、まるで古い神話から抜け出してきた存在のようだった。
セターラは舞台の中央にゆっくりと歩み出た。観客席は期待に満ちた沈黙で満たされ、会場全体が彼女の一挙手一投足に注目していた。
セターラは笑顔で観客を見渡すと、少し腰を落として腕を交差させた。奏者が一瞬弓を強く引き絞り、唸るような低音を発すると、彼女は四肢を解き放つように躍動しはじめた。
彼女は、アキュバルの目から見ても卓越した踊り手だった。彼女の手は空中に複雑な軌跡を描き、時に激しく、時に繊細に、彼女の身体全体が一つの楽器のように音楽と調和していた。頭部は釣り合った秤のように常に水平で、その動作は水面を滑る水鳥のように、まるで体重を感じさせない。先ほどの踊り子たちとは技術のレベルが違う。
「美しいだろう?」
男性が感嘆の声を上げた。
「彼女はハザル族の踊り手だ」
「ハザル族‥‥‥」
「ハザル族といえば、もともとは北西の広大な高地で遊牧生活を送っていた誇り高い民族だった。しかし十年前、ファールズ軍の侵攻を受けて高地を追われてしまったんだ」
十年前?
アキュバルは「娘」のホロスコープから読み取った出来事を思い起こした。
「彼女の民族舞踊には一族の歴史と悲劇が織り込まれている。彼女の人気があるのは若いからだと穿った見方をする者もいる。しかし‥‥‥」
観客席の盛り上がりは最高潮に達していた。ある者は手を叩いて喝采し、ある者は指笛で会場を盛り上げ、またある者は彼女の名を甲高く叫ぶ。
「彼女の踊りは紛れもなく『本物』だよ」
観客からの盛大な拍手と声援に応え、セターラは観客席を見渡して一礼した。その仕草には弾けるような愛嬌があった。汗に濡れた頬に浮かぶ微笑みは、演奏への充実感と観客への感謝を同時に表していた。
彼女は軽やかに手を振り返し、特に熱心に声援を送る客席の一角に向かって親しみやすくうなずいてみせる。
声援がひとしきり落ち着くと、舞台には新たに長い葦笛(ネイ)を携えた奏者が登場し、セターラと目配せした。また何か違う演目が始まるのだろうか?
アキュバルが様子を見守っていると、隣の男性が言った。
「さあ、竜舞(りゅうぶ)の時間だ」
「‥‥‥竜舞?」
荒涼と吹きすさぶ風のような笛の音を背に、セターラはその場で円を描くように足を運びはじめた。
それは、アキュバルはこれまで見てきたどの踊りとも違う、異質なものだった。
彼女の腕が描く旋転はゆっくりとしているのに、目でその動きを捉えることは叶わない。身体は惑星のように自転しながら、その存在は世界の中心に根を張る巨樹のごとき静けさを保っている。
動の中にある静。流転の中の不動。
――その不可思議な調和は、観客を深い瞑想の淵へと誘うかのようだった。観客席はまさに水を打ったように静まり返り、誰もが固唾を飲んでその成り行きを見守っていた。
「ハザル族に伝わる古い舞の型らしいが、詳しいことはわからない。いつからか、客の誰かが名付けた『竜舞』という名称で広く知られるようになった。今では、この『七つの門』の名物だよ」
男性の解説を聞きながら、アキュバルも深い淵に誘われるように、いつしかセターラの竜舞に没入していた。一体何歳から、どんな修練を積めばこのような踊り手になるのだろうか?
しばしアキュバルは竜舞に見入っていたが、左肩に乗るラーフが先ほどから何の反応も見せていないことが気になった。
アキュバルはラーフの顔を振り返った。ラーフはいつになく真剣な面持ちで竜舞を見つめていた。日頃の軽妙さはそこになく、彼の表情は神妙そのものだった。
「おい、どうした?」
少し面食らってアキュバルが尋ねると、ラーフは
「あれはおれたちだ」
とつぶやいた。
「おれたち?」
「あれはラーフとケートゥの神話を表現したものです」
ケートゥは厳粛な声で言った。
「彼女は私たちの神話を踊っています。月と太陽、そして二匹に分かたれた竜の物語を」
ラーフとケートゥの神話がいつの時代から伝わっているかについては諸説あり、定かではない。何千年前、何万年とも、またはこの世界が生まれるずっと前から存在していた「神話の原型」なのだと主張する研究者もいる。
実際にラーフとケートゥの神話は少しずつ地域によってその語り口を変えながらも、時代を超えて人口に膾炙している物語といえるだろう。
遥か遠い昔、神々が年老いてその力が衰えると、魔族は世界の支配者の座を狙い、覇権を奪おうと試みた。これに対し、神々は不老不死の霊薬を作り出すことで、その支配を永遠のものにしようと考えた。
しかし、狡猾で知恵の働く竜であるラーフは変装して神々の中に紛れ込み、霊薬をこっそり盗んで飲み始めた。だが、その正体を見破った太陽と月の密告により、ラーフは神に追われ身体を両断されてしまう。その片割れがケートゥとなった。
彼らは告げ口した太陽と月を恨み、永遠に追い続けるようになった。戦いの中で彼らは太陽と月を捕らえ、呑み込むが、身体が半分ないためにすぐに出てきてしまう。これが日蝕と月蝕の由来であるという民間伝承だ。
「欲望と解脱、物質と精神、永遠の対立と調和‥‥‥」
ケートゥはその永きにわたる因縁に思いをはせた。
「足を見てください」
ケートゥはセターラの足の運びに注意を促した。彼女は基本的に円を描くように歩んでいるが、時折身を翻し、その軌跡を楕円に変化させている。
「あの歩みは太陽と月の軌道をあらわしています」
アキュバルはより深く彼女の動きを注視した。ケートゥの言葉により、動作のひとつひとつが違った貌すがたを見せはじめる。
「身体は旋転する竜を。そして、あの両手の動きには陰と陽、性質の異なる二者を調和し、統合させるという暗示があります。あの所作の一つ一つが、ラーフとケートゥの神話を表現しているのです」
「本当なのか?」
「わかるんだよ」
ラーフは穏やかな声色で言った。
「自分たちのことだからな」
ハザル族にも二匹の竜の伝承が伝わっており、竜舞はそれを表現したものだということだろうか。
竜舞は徐々に速度を増し、観客の集中も最高潮に達しているようだった。静寂に包まれていた客席から少しずつ声が漏れ始める。
その時だった。
アキュバルは視界の中に微かな違和感を覚え、その原因を探った。
違和感の元はすぐに明らかになった。一階席の群衆の中に、見覚えのある顔があったのだ。
「あの男は‥‥‥」
マジッドだった。
税務監察官は舞台から離れた壁際の席で彼女を見つめており、昼間の応接室では決して見せなかった、神妙な表情で佇んでいた。
「驚きましたね」
ケートゥも声を上げた。マジッドは微動だにせず、竜舞に見入っていた。二階席のアキュバルの存在には気づいていないようだ。ラーフは言った。
「これで、奴の『娘』がセターラだという可能性が濃厚になったな」
「ああ」
アキュバルはうなずいた。
終演後、中庭は興奮した観客たちで混雑していた。アキュバルは人混みをかき分けながら、セターラの姿を探した。隣にいた男性によれば、終演後セターラは中庭に挨拶に出てくるため、運がよければ話せるのではないかということだった。
アキュバルがセターラの姿を見つけた時、すでに彼女は多くの観客に何重にも囲まれていた。常連と思われる客たちが口々に声をかけ、セターラは一人一人に丁寧に応じていた。舞台衣装の上に薄い上着を羽織った彼女は、先ほどの神秘的な雰囲気とは対照的に、親しみやすい笑顔を浮かべている。
アキュバルはしばらく人垣の隙間から様子を窺ったが、客たちが立ち去る様子はない。
「これはさすがに無理だろう」
「新しい客には率先して声をかけてくれると言ってたろ」
それは隣の席の男性が去り際に教えてくれた助言だった。
「それに、お前の身なりは目立つ。あきらめるな」
ラーフに叱咤され、しばらくその場に立ち尽くす。どのくらいの時間が経っただろうか。
「どうぞ!」
果たして、セターラが親しげに手招きしてアキュバルに声をかけた。
終演後のセターラは、舞台に立っている時とはまた違った印象だった。舞台上では神秘的で手の届かない存在に見えたが、こうして間近で見ると、むしろ親しみやすい愛らしさが際立っていた。丸みを帯びた頬と少し上がり気味の目尻と口角が悪戯っぽさを感じさせる。深い黒色の瞳には溌溂とした光が宿り、汗ばんだ額には踊りの余韻が残っていた。
「素晴らしい舞踊でした」
さすがにアキュバルの声にも微かな緊張が滲んだ。彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。はじめまして、ですよね?その装いからすると、旅の方?」
「はい。今はこの町で占星術をやっています」
「え!」
セターラは口元を両手で隠して驚きを表現した。
「私、占い大好き!街角でよく占ってもらうんです。十二星座診断とか、霊獣占いとか‥‥‥」
アキュバルは苦笑した。
「そういうものとは少し違いますが‥‥‥時間がありませんので、単刀直入にお聞きします」
アキュバルはセターラに少し近づき、小声でそっと伝えた。
「先日、あなたのお父様と名乗る方から依頼を受けました。あなたのことを見てほしいと」
「‥‥‥え?」
セターラは明らかに困惑したようだった。わずかに眉をひそめ、その口は言葉を紡ぐのを忘れたかのように半開きのまま固まった。
「税務監察官のマジッドという男です。覚えはありますか?」
「‥‥‥いいえ。どうしてそれが私だと?」
「ホロスコープを見て、そして今日ここに足を運んで、その可能性が高いと感じました」
「でも、私の父は‥‥‥」
「おい、押すんじゃない!」
セターラが何かを言いかけた時、後ろから喚く群衆に押されて彼女がアキュバルの胸に飛び込んできた。アキュバルは少しよろめきながらも、セターラの身体を受け止めた。
一瞬、二人の身体が密着した。アキュバルは彼女の髪の甘い香りと、身体の中に残った踊りの熱を感じた。時間にすればわずか数秒だったが、それは一分ほどにも感じられた。
「すみません!」
セターラは慌てて身を離した。しかし、その一瞬の出来事は二人を取り囲む男性たちを不快にさせたようだ。敵意のある眼差しが肌に降り注ぐのを感じる。
「セターラちゃん!セターラちゃん!」
一部の熱狂的な観客が二人の間に割って入る。あっという間に彼女は人に囲まれ、アキュバルから引き離されてしまった。
しかしセターラは、まだこちらを見ていた。彼女の眼差しは謎めいた色を宿していた。何かを伝えたいのだろうか。しかし、それが何なのか判別できぬまま、彼女は客に押されて反対側の回廊へと消えていった。
「まったく大変なことだな」
ラーフが呆れたようにつぶやく。
「ああ」
狂騒が去り、アキュバルはしばし呆然としていた。残念ながらマジッドに関する手がかりを得ることはできなかった。アキュバルは乱れた衣服を整えた。まだ、そこにはセターラの残り香が微かに漂っていた。
「ところでお前、彼女を追ったほうがいいんじゃないか?」
「なに?」
「お前の大事なものを掠めていったようだぜ」
ラーフに言われ、アキュバルは即座に腰に手を当てた。下げていた小さな革袋がなくなっている。そこには、長年愛用している葦の筆とインク、占星術の知識を走り書きした小さな羊皮紙片が入っていた。
「セターラが?」
「ラーフ!」
ケートゥは思わず声を上げ、ラーフを咎めた。
「黙って見ていたのですか?」
「ああ。面白いことになりそうなんでな。あの小娘の瞬間的な判断だ。まったく恐れ入るよ」
アキュバルは首を振って嘆息した。
「まったく気づかなかった」
「彼女には意外な特技があるみたいですね‥‥‥」
「もう一度彼女に会わねばならない理由ができたな」
「‥‥‥ああ、君!」
その時、背後からアキュバルに呼びかける声がした。
振り向くと、隣の席に座っていた男性が手を振っていた。彼が笑みを浮かべて近づいてきた。
「どうだった?話せたかい?」
「ええ。おかげさまで」
男性は満足そうにうなずいた。
「やはり、君は運がいい」
「あなたにひとつお聞きしたいのですが‥‥‥セターラさんはどこから『七つの門』に通っているのですか?」
「おいおい、会いに行くほど熱烈なファンになったってわけかい?」
「ええ、まあ」
「彼女は、というか、ハザル族の人たちはみんなムルギルに住んでいるよ」
「ムルギル‥‥‥」
「彼らの居住地であり、聖地だ。今はエル=バシール州の管轄区域になっているけどね」
アキュバルはラーフ、ケートゥと顔を見合わせた。
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